結婚における価値観と呼ばれる無形の概念に関して

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先日、といっても土曜日の話だが、夕飯を済ませ妻と「銭湯にでもいこうか」という話になった。

 

元々、風呂に関しては互いに嫌いではないし、むしろ好き寄りだという自負はある。この日、銭湯に、それも夕飯後に「いこうか」という話になったのは、本当にたまたま“面白い”テレビがやっていなかった為である。

 

そうして、いざ銭湯に行く準備をしながら、我々夫婦は行き足について考えたわけだが、今の住まいは商店街にほど近く、小さな街銭湯であれば徒歩圏内に数件ある。ただ、この日の気分は「もう少しだけ大きい湯に浸かりたい」という部分でコンセンサスが取れていたので、我々にとって“もう少しだけ大きい湯”にあたる御用達の「さやの湯処」に向かうことにした。

www.sayanoyudokoro.co.jp

 

さて最寄り駅から、このさやの湯処への交通手段は複数あるが、

  • 電車で移動したあとバスで向かう
  • 5分歩いたコインパーキングからカーシェアで直接向かう

このいずれかにしようという話になり、そこで簡単に試算したところ、電車で向かうほうが数百円安くなることが判明したが、話し合うこともなく、そしてまた検討の余地もなく、我々は数百円高いカーシェアを選び、銭湯に向かったのだった。満場一致なわけである。(ふたりだが)

 

銭湯は混んでいたものの、久々の大きな湯は良く、疲れもいくらか取れたかもしれない。大きい湯は正義である。

 

よく「恋人関係や、結婚生活が上手くいく秘訣はなんですか?」なんて質問がテレビでも雑誌でも、知人友人間でも飛び交うが、その答えのひとつとして頻繁に登場する「価値観」こいつに関して、この銭湯の件で感じるところがあった。

私の好きなツイッタラーに元鈴木さんという方がいる。彼女のツイートを引用させてもらおうと思う。

うん。これである。

今回我々夫婦は数百円高い選択肢を選び、真夏の外気にさらされる時間の短縮や移動中の快適さを買ったわけだが、こうした選択の基準や感覚が近い相手とはなにかと上手くいくと思ったのである。

 

共通の趣味がある、などもしばしば“秘訣”として登場こそするものの、我々夫婦に関しては、食事の好みが合うことは少ないし、共通の趣味も基本的にはない。(最近は一緒に映画を見てくれるようになってきた。嬉しい限りである。)

そこで困ったことはなかったと感じているし、むしろ大切になってくるのは、今回のような“選択の基準”や“思考の癖”なんかが似てる、あるいは近いことなのではないか思う。押し付けるつもりはないが。

 

考えてみれば、自分の好きなことを一緒に楽しんでくれる、つまり楽しい時間を共有するだけが夫婦生活、あるいは共同生活を営むにあたって必須条件ではないのである。必須になってくるのは、なんらか選択を求められたとき、選択しなければならない時に、共に考え、結論を出せるかどうか。そしてその結論に至る道筋や根拠が似ているかどうかだと思う。

 

もうひとつ言うとすれば、妥協できる範囲の一致も重要な要素だと思う。先程までの話と真逆の話となってしまうが、仮に道筋や根拠、考えの癖などが違い、導き出す結論が違ったとしても互いに妥協できる、許容可能な範囲が重なっていればそこを落としどころとしていけばいい。

 

ここに限った話ではないが、互いのことを真に理解しているなどといった、思い上がりは夫婦生活において持つべきではないと常々思っている。(良くも悪くも)誤解を恐れずに言えば、夫婦は究極的には他人だし、他人を理解することはとても難儀なことであるはずだからである。ただ理解できないからといって、諦める、あるいは相手から理解してもらうのを待つ、というのは上手いやり方とはいえない。これは何も夫婦間にのみ当てはまることではないし、「仕事ではうまくやっているよ」というような人間はすべからくできていないと思ったほうがいい。一度自問してみることを薦めたい。仕事でできているのにどうして家庭ではやろうとしないのか?意味のない棲み分けはやめておくべきだ。互いに理解し合おうとし、歩み寄ろうとする姿勢が結局“秘訣”というやつの正体なのかもしれない。なんだか偉そうに語ってしまったように思う。反省しておく。

 

ところでこの記事を読んでくださっているあなたにむけて話をしている。他人事ではないのだ。