キャンパス pic.twitter.com/8VtoEwHDNs
— Copy writing (@Copy__writing) 2015, 8月 17
さきほどこんなツイートを目にしてふと思ったことを書きます。前にもこんなこと書いたことあるかもしれませんがあしからず。
このツイートの表現はすごくしっくりくる。(厳密にはキャンパスではなくキャンバスらしいが)生まれた時は確かに何も知らないし何の影響も受けていないと思うから。もし才能というものがあるとするならこの画用紙が元々大きかったり、とても書きやすかったり、選べるクレヨンの色が多かったりということなのだと思う。あるいは画用紙を大きくしようと努力した時にすぐに広がったり。こういうのが才能なのかなと思う。
話が少し逸れましたが、肝心なのはこの部分。
「さて何を描こうか 考えているうち たっぷりあったはずの時間は過ぎてゆく」
どう生きていくか、やりたことはなにか、誰と時間を過ごしたいか、そんなことをあれこれ考えている/選んでいるうちに小中高大学社会人と時間は無情にも過ぎる。
「ようやく描きたいものが決まった時には もう帰る時間さ」
そうしてようやく何をするか、どう生きるかが決まった頃には恋人や家族、今の生活や立場なんかが邪魔をして身動きがとれなくなってしまう。(邪魔という言葉では語弊があるかもだが、大切に思うからこそ動けないという意味も含んでいると考えていただきたい)お金も然りだ。そして最も厄介なのが周りからの目だ。親からの目、友人からの目、同僚からの目。人は皆誰かと関係しあって生きている。そんなことはない、と思う人もいるだろうがそれこそ、そんなことはない。人が生きていく上で誰とも関わらないなどということはありえないに等しい。周りからの目を気にし、どう思われているかを気にし、行動を決めていくうちにますます描きたかったものからは遠ざかっていく。
かくいう私も働き始めて2年目となり、ここで言う時間は着実になくなりつつある。画用紙に何を描くか、どんな色を選ぶか、どう生きるか、そんなことを考えたこともなかったわけじゃない。
ただ、私が思うのは何も自分1人の画用紙で勝負しなくてもいいんじゃないかということだ。友人でもいいし恋人でもいい、誰かと画用紙を貼り合わせ、一緒に好きな色で好きなものを描けばいいじゃないか。1人であれこれ悩むのなら背中を押してくれるような、一緒に楽しんで描いてくれるような人と画用紙を並べればいい。それは逃げ道じゃなくて画用紙をどう使うか悩んだ結果だ。それでいいじゃないか。賛否ある意見だとは思うが私はそう思う。それでいいじゃないか。楽しければそれで。
kenken726は…
(早くから色を決めて描き始められる人は本当にすごいと思う。自分の色を信じて疑わない才能。羨ましい。)