アウトプット

おはようございます。
けんけんです。(@takotako726

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画像は「アウトプット」検索してなんとなく目にとまったので。

さてタイトルの「アウトプット」
意味はみなさんご存じのとおり。

成果物、結果。そのもの自体は完成した書類であったり、契約の成立であったり、会議用の資料であったりと様々。個人の仕事の能力を、その結果の質と量で判断するための尺度。仕事ができる=アウトプットのレベルが高い、優れている。

一部偏った表現がありますが気になさらず。

今回このタイトルを選んだ理由としてはこの記事を読んだことに端を発するものと考えていいだろう。
ひとり語りは面白いのかどうか、について。

この記事には(記事と呼ぶのが正しいのかは定かではないが)なんというか当たり前が書いてある。そう、書いてあるのはよくよく考えれば当り前なことばかりなのである。
 
 文章は無から生じるものである
 自分の文章を読むことは追体験である
 自分が読む自分の文章と他人が読む自分の文章は別物



これらはそう言われてみれば当然のことである。しかし、実際にはわかっていながらできていない、あるいはしていない人が大半である。それはなぜか、アウトプットが足りないからだ。ようやくタイトルまでこじつけた。

この記事内でも述べられているが「他人が読む自分の文章」は「自分が読む自分の文章」ほどおもしろくないものなのだ。そもそも、作家かなにかでもない限り「こりゃあ誰が読んでもおもしろいな」なんて思うことはまずないとは思うが。というか作家でもそんな風に思う人は本当に一握りだろう。

そこで私が「アウトプット不足」を訴える理由は「他人がおもしろいと思う文章を書くため」か。こたえはNoである。というよりも努力だけでどうにかなるならこの国は作家だらけの作家国家(サッカコッカ)である。響きが気に入った。

話が逸れたが、私が「アウトプット不足」を訴える理由は「相手、あるいは場面に合わせた表現で伝える力を育成するため」である。いささか上から目線な文章が続くがここはブログ、自由に書こう。

手紙を書く、プレゼンする、ブログに記事を書く、雑談する、などアウトプットに制限はない。自分の頭の中に散らばっている考えやイメージを言葉という媒体を使って表す。それだけでいいのだ。それが難しいが。



私自身、ブログの更新を通してここ数ヶ月以前よりも格段に文章を書く機会が増えた。それが私の表現する力に好影響を与えているとは、現時点では言い切れないが、少なくとも1記事あたりの字数は大きく増えたように感じる。

「それは伝えたいことをまとめられていないのでは?」そうかもしれない。しかし、以前の私はそもそも、こんな長文を書こうとも思わなかったのだ。そう考えればこのアウトプットも無駄ではなかったのではないか、私はそう思う。

そんなことを考えながら「他人が読んでもおもしろい文章」を目指して今後も更新を続けていきたいと思う。