【自分を見つめ直すための】永い言い訳 を見て思ったこと、考えたこと ネタバレ

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先週見てきたので

簡単に気になったこと、感じたことを。

※ネタバレ含みますので、未見の方は見ないほうが良いかもです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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タイトルについて

「長い」ではなく「永い」としていることからも、人生をかけてまで言い訳を続ける男の人生を描いていたのでは、と思う。その「言い訳」は「妻の死を悲しめなかった自分」に対するものであり、「妻を愛せなかった自分」に対するものでもある。妻を亡くしても、周りから叱責を受けても、世間から孤立したとしても、男は自分自身に言い訳を続け、常に他に責任も求める。象徴的なシーンは妻の葬儀を終え、自宅で自らの名前でエゴサーチしている男の姿だろう。言い訳の相手がもうこの世に存在していないことで、許されることもなく、罵られることもないわけだが、徹底した自己中心的な男として描かれた彼には同情の余地もない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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人生は他者だ

作品の中で主人公が作家という設定をしながら、過去にどのような作品を書いているのか、今現在どのような作品を書いているのか、などについてわかる描写はない。唯一、作家らしさのようなものを感じる手帳への走り書きですら、殆ど描写がないのは、妻の言う「嘘つきが嘘ばかり書いている」からなのかもしれない。そんな中、この「人生は他者だ」という一節だけがスクリーンいっぱいに映し出されたことから察するに、この一節がこの作品のすべてを、男の人生すべてを表している、と考えるのが自然だろう。自分自身が生きてきたと思っていた人生は所詮その程度のものであり、妻を失った今、自分には何もないことに気付きながらも目を背ける様子は、彼だけではなく、誰しもが思い当たる節のあることなのではないだろうか。一方で、この一節を私は「人生を構成しているのは、自分ではなく、他者であること。そして、自分に関わる他者によって自分は生かされている。」と解釈した。勿論、人生は選択の連続であり、それらの決断を下すのは、最終、自分自身でしかない。しかし、人生は一人で生き抜くにはあまりに永い。共に歩いてくれる人がいてこそ、生きていける、生きていられるのではないか、そんな風に思う一節だった。短く、重く、深い言葉だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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バス事故による突然の別れ

物語はここから始まるわけだが、否応なく、思い出されるのは2011年の東日本大震災だろう。5年という年月が経ち、各々が自分なりに整理をつけ、「この経験を何らかの形にしなければならない」という使命感からか、あるいは形にすることによって整理される、のかは定かではないが、今年2016年に震災を彷彿とさせる作品が幾つか見られるように感じるのは、そういった側面からなのかもしれない。未曾有の事態に直面したときに、誰もが取り乱す、とは限らない。亡くなった人を想い、泣き叫ぶ人、怒鳴り散らす人、周りにあたってしまう人、一歩ひいた場所から他人事のようにしか感じられない人。正直、私自身が震災を直接的に経験したわけではない。これは興味の有無ではなく、実際にそう感じているからである。私は、震災を経験し、忘れたい、という想いと常に戦いながら、それでも生かされているものとして、前を向き続けている友人を知っている。彼と私を対比して見たときに「経験した」とは到底言えず、そういった強さを知っているからこそ、なおのこと「経験した」とは言うことはできないと思っている。このような繊細なテーマを扱う上で重要とされるであろう人間の心理描写を本作は非常に的確に切り取り、映し出していた。足りない語彙で語ろうとするならば「どこにでも、誰にでも、起こりうる日常を切り取ることで見える人間の本質」この作品が私たちに見せようとしていたのは、そんな「常に近くにありながら、気付きながら、目を背けていること」についてなのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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陽一家との交流

妻の親友の家庭には、2人の子がおり、バス会社から遺族への状況説明で偶然、その夫に遭遇したことから、彼らの面倒をみることになる。はじめは互いに距離を感じていたが、少しずつ打ち解けていき、やがて、男にとってもその家での時間は大切なものとなっていく。ただ、一方で、幼い子ども(小学生くらいまで)は、往々にして「少し距離のある大人と良好な関係を築きやすい」と私は思う。見ず知らずの大人なら、子どもは警戒するが、近所のおばちゃんや両親の友達などがいい例だ。反対に、大人側もその子どもが自分に責任の及びにくい存在であればあるほど、良好な関係を築くことの難易度は下がるのではないかと思う。つまり、ここで描かれている子どもたちとの交流はあくまで、ここだけの限定的なものでもなければ、他の組み合わせでは起こりえなかったわけではない、と思うのである。途中シーンが変わり、担当編集が発した「育児は逃避ですよね」にもその皮肉が込められているように思う。イクメンという言葉が世に浸透してから日は浅いが、近年「男性も女性同様に生地に対する責任を負うべき」という思想は加速している。にも関わらず、この「育児は逃避」というセリフには、やはり根深く残っている「育児は女性がするもの」という意識と「男性は外で金を稼いできてなんぼ」という意識からくるものであり、変に男性が育児に携わると「逃避」だといって揶揄されてしまうのである。勿論、これはかなり偏ったものの見方として聞いてほしい部分ではあるが、実際問題、各々自問自答してもらいたいものである。タイトルに再度絡めるとするならば、この子たちとの生活や彼らにかけた言葉でさえも、「言い訳」の一部でしかないのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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総じて

まず私自身がこの作品から感じたのは、「この男のようになりたくない」だった。これを一般的な感想だということを踏まえた上で、もう一歩詰めて考えてみたい。「なりたくない」と感じるのは、少なからず私という人間の中に彼のような部分がある、あるいは、あるのではないか、と感じているからこそ抱く感情だと思う。この作品を見て、「可哀想な人」と思う人もいれば、「こんな酷い人いるの?」と思う人もいるだろう。本でもなんでもそうだが、作品に対するなんらかの感想は、その人がこれまで経験してきたことないし、その人自身のことに紐付いている場合が多い。自分とかけ離れた主人公の話を見て、「この人みたいになりたくない」と思うのと、自分に似ている部分を感じながら、「この人みたいになりたくない」と思うのでは、同じ字面でも中身が違うのは明白である。そのため、この作品を見て最初に感じた「この男のようになりたくない」は「自分もこうなるかもしれない」という面と「こうなってはならない」という面だと捉えたいと思う。こう思ったことに安堵し、楽観するもひとつ、「自分もこうなるのかも知れない」と悲観するもひとつ、本当に様々な受け取り方のできる作品だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

kenken726は…

(ちょっと捉え方の選択肢が多すぎて、鑑賞難易度高め。でもいい映画。)

 

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